東日本大震災。私はあの日。

- 東日本大震災から学んだ職能的行動

冒頭写真は東日本大震災の瓦礫によって生み出された彫刻です。こちらは先日、川反中央ビルにあるギャラリー「ココラボラトリー」で行われていた仙台出身の彫刻家、青野文昭さんの展覧会風景です。まるで普段使っていた「もの」同士が津波で流され融け合ってあの日を封じ込んだように見えます。

 今日で東日本大震災から3年をむかえます。

 今年もこの日をむかえることで、私たちは3年前に自分の目の前で起こったこと。故郷で起こったこと。そして被災地で起こったことを思い出しているかと思います。私があの日体験したことの一部を今日はこのブログに書きます。

私はあの日、まだ秋田に戻って事務所を立ち上げておらず、東京の会社に勤めていました。その日の午後は、会社のミーティング室で着工しはじめている物件について、担当の現場監督と打ち合わせをしていました。

揺れを感じたのは1446分ころ。

ただの地震かなと思ったのですが、揺れている時間が今まで経験したことがないくらい長く感じました。ここでいつもの地震を違うことを私たちは察知し、今までにないの不安を感じました。

ミーティング室から窓の外を見ると、通りを挟んだ向かいの古い家はおそろしく揺れ動いていました。揺れがある程度止んだ後、ミーティング室、隣の事務所は本や書類、カタログなどが床に落ちた状態でした。

会社のスタッフはほとんどが会社にいたのですが、数名現場に外出していた状態でしたので、まずは安否の確認のためそのスタッフに連絡をとりました。連絡は何回か携帯電話にかけるとようやくつながり、安全を確認することができました。現場にいたスタッフ、そして会社に戻ろうと電車に乗っていたスタッフがいました。電車は地震によりとまってしまっていたので、現場にいたスタッフは電車が動くまで現場のお施主さんの家に待機させてもらっていました。電車に乗っていたスタッフは他の乗客といっしょに電車を降りて、歩いて会社にたどりつきました。線路をつたって最寄の駅まで歩いたとのことでした。

インターネットやテレビでは時間の経過とともに起こった全貌が少しずつ明らかになっていきました。震源は東北であったため、見て確認できるメディアで私は情報を収集しようとずっとテレビを見ていました。

秋田の実家や親の携帯にかけてもつながらないため、メールを送ると特に秋田は問題ないが停電になっているという返事が返ってきました。ニュースなどで確認すると地震によって火力発電所が停止したため停電となっていたようでした。

電車がとまって家に戻れないスタッフは会社に寝泊りをしました。私は歩いて帰れる距離に家があったので夜は一旦家に戻りましたが、家に戻るまでは他のスタッフと地震の状況をテレビなどで確認していました。仙台空港や気仙沼の漁港に津波が押し寄せていたライブでの様子に驚愕した記憶は今でも鮮烈におぼえています。

夜が明けて次の日。よりその被害の全貌が明らかになった様子をテレビで確認し、衝撃を受けながらも、私たちスタッフは手分けをして現在進行中の現場の状況や、お引渡しをした物件の様子を確認するためお施主さんたちに連絡をとりました。最終的に連絡がなかなかとれなかった方もいらっしゃいましたが、全て無事の確認がとることができ安心しました。

秋田の実家と電話がつながったのは2日後くらいでしょうか。つながったときも秋田は停電が続いていました。そして電話をした数時間後、停電は復旧したと連絡がありました。

これがその日私が震災と直面したリアルの一部です。

 いやでもこのリアルは今の日常によって風化していきます。なのでその記憶を3年経った今日はここに書き、起こった事実をみつめています。

私が書いたあの日の不安なんてものは、被災された方々のものとは比べることのできないほど小さなものです。今も尚、彼らはそれと向き合いながら日々を送っています。

東北の少しでも早い復興を祈ります。

そして自分の職能によってできる可能なかぎり、その力になれるよう努力いたします。

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